昭和45年9月25日 夜のご理解
(感話?で)話しておったことの中に、よく聞こえんからよく分かりませんけれど、んー男らしくありたいとか、よいこと、悪いことにつけて、その無頓着な人間になりたいと、ん、そういう例えば願いを、願いを、まあいうなら自分の願いの中に、この発見したということは大変なことだと思うですね。これはどういうことかというと、あの我情我欲のない自分になりたいということなんですよ。無頓着、よいこと、悪いことにも無頓着の人間になりたい、大きな人間になりたい、ということはそうです。すとこの男らしくありたいといったようなことは、それは男らしいことが幸せということじゃありませんけれども、あのやはり本当に人間らしくなりたいと、まあいうならば、お道の信心でいうなら、和賀心が神に向こうていく、人間になりたいということになるのじゃないかと思うんですけれどもね。まあもう少し極めていったら、まあ本人が、そのことを、より信心にむすびつけて、ああありたいと思いよったらそうなってくるんだと思うんですけれども。えーこの無頓着の人間になりたいということはこれは大変なことだと思うですね。これはもうあの、どういうことにでも、よいこと悪いことにつけて、無頓着になれるという、これは素晴らしいことです。我情我欲をとった人の姿です。ね。
今日あの、研修会で、そういう、それと同じような話がでたんですけれどもね、えー、いろんな、例えば人間関係のーというのは、あー結局自分の常識というもの、自分の常識、んー自分の常識で相手を見るからだということを文男先生が最後に話しておりました。ね、だから例えば嫁、嫁さんがいっちょん動かないと。こげんいうたら、こん位なことくらい言うてもしてくれてもよかろそうなもんと、その嫁、嫁としてはこうあらなければならんという枠をつくる。それがそして常識と思うておるところに、嫁がいたらんようになるのだ、それは反対に、なら姑親ということになってもいい。だから、もうどうあってもらいたい、こうあってもらいたいというのは全然問題じゃない、常識をいつも外れておる。だから場合には、非常識、だからまあそれが私は超常識という言葉をいつも言っておるわけですけれども、その無頓着になるということはそういう内容だと思うです。お互い、本気でよいこと、悪いことにつけてです、ね、なら嬉しい事、または悲しいこと、それがね、人のように、まあ際立って喜ぶというようなことは無い代わりに、さあ人が悲しんでおる時にです、そんなに悲しいというおもわんですむような心の状態、これが我情我欲をとった人の姿だと思うですね。お互いそこをやっぱ願わにゃいかん、それが、あんまり神経が小さすぎる。
ね、もう例えば、おはようございますと言うても、なら返事をしなかったと。ね、というと、もうそれだけで不愉快になるといったようなことじゃなくてね、そこを本当に善意にとるといったようなものじゃなくて、それがもうそげなことは無頓着になれれる心の状態、ね、それが無頓着になれれる、よいこと悪い事につけて、というのは、もう本当に助かった人の姿のことをだと私は思うですね。素晴らしいことです。お互い素晴らしいこと、無頓着になれれるおかげを頂きたいですね、どうぞ。